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日本国憲法:第三回 – 第一条

[本記事は、三浦徳祥(みうら なりただ)](2018年~学生アルバイト)による寄稿です。日本国憲法に関するプランゲ文庫の資料をブログ記事全六回に亘って紹介します。第一回、第二回もご覧ください。]  第一条 もうすぐ今上陛下が御譲位あそばせられ、元号が平成から令和に変わります。新しい時代の幕開けに皆さまも喜んでおられると思いますが、そもそも「天皇」の役割は日本国憲法の第一条にどのように書かれているのでしょうか。 昭和21年(1946年)の国会では新憲法下での天皇の役割について、非常に白熱した議論が連日展開されていました。詳しく知りたい方は佐藤功の著作『憲法改正の経過』(Call Number JQ-0165)を参考にしてください。憲法改正にあたり、GHQは当初「憲法改正は我々の仕事ではない」(1)と考えていました。しかし、日本政府は新憲法下でも天皇の統治権を現状維持、又は少し減らす方向で考えていた為、GHQは日本政府の対応に危機感を抱き、昭和21年2月10日に「天皇は国家ではなく国の象徴とし、…神格化される事はあってはならない」(2)と決めました。その3日後、吉田外相(後の総理大臣)と松本国務大臣をGHQ本部へ呼び出し、憲法改正案の責任者だったホイットニー将軍はGHQの改正草案を日本政府に一方的に通達しました(3)。吉田外相と松本国務大臣はこの改正案に憤慨し、GHQ側から正式な説明文が無い事には納得できないと食い下がりましたが、ホイットニー将軍は「そこ【GHQの改正案】に書いてある通り」(4)とあしらいました。 GHQの意見が絶対的であった当時、日本国政府は改正案を受け入れつつも、多くの日本人は「天皇の御一身が形態的に国家を代表し、国民は法律上恰も国家に対する如くに御一身に対し尊崇敬愛の義務を負ふことを意味するのと解すべきであると信ずる」(5)との条文解釈で何とか合意しました。要するに、例え天皇の役割が新憲法下で変わるとしても、日本国民が天皇を尊敬する姿勢には変わりがないと考えていました。唯一、日本共産党は一貫して「天皇制」を打倒を訴え続けていました(6)。 参考資料: Charles L. Kades Papers [Online]. Check sheet dated 18 Jan 46 attaching minutes of conference with FEC held 17 Jan 46: Extract From Minutes of Conference With Far Eastern Commission on 17 January 1946 (p. 416). Retrieved from https://archive.org/details/mdu-prange-30402/page/n415 Charles L. Kades Papers[Online]. Check sheet dated 10 […]

日本国憲法:第二回 – 前文

[本記事は、三浦徳祥(みうら なりただ)](2018年~学生アルバイト)による寄稿です。日本国憲法に関するプランゲ文庫の資料をブログ記事全六回に亘って紹介します。第一回もご覧ください。]  前文 今回はシリーズ第一作目、日本国憲法の「前文」について書こうと思います。「前文」は次のように書かれています(1): 私がプランゲ所蔵の資料を調べた中では、「前文」が初めて登場するのはCharles L. Kades Paper(全文はInternet Archiveにてアクセス可)に含まれている、昭和21年(1946年)3月6日の「Draft Constitution of Japan (Second Government Draft)」です(2)。ご覧の通り初めは漢字が多く、更には文語体で書かれており、現在の口語体で書かれている「前文」と比べ、非常に読み難いものでした。 なぜ、GHQは平仮名を用いた口語体に改めさせたのか?この疑問に対して、私は一つの仮説を立てました。アメリカ英語では口語と文語が分かれておらず、日本の文語体はとても堅苦しく、読み難いものと映ったかもしれません。なお、GHQは平和な国「日本」を構築する上で、誰が読んでも理解できる新憲法が必要と思っていました。そのため、口語体を用いた「前文」の書き直しを命令したのではないかと考えられます。 口語体への書き直しが決まり、英語の「前文」を日本語への翻訳作業は困難を極めました。国会議員の中には日本社会党の鈴木義男の様に、日本語訳された「前文」が余りにも悲惨で、昭和21年(1946年)6月26日の国会では「極端に申せば、泣くが如く、訴ふるが如く、嫋々【なよなよ】として尽きざること縷の如しと云ひたい」(3)と苦言を呈していました。試行錯誤の末、同年11月3日に憲法草案が可決されるまでの過程で、口語体・平仮名を使用した現在の「前文」へと変化していきました。その結果、GHQは目的を達成し、憲法学者・美濃部達吉氏が言う様に「其の【文語体から口語体への変更】及ぼせる影響は甚大と謂ふべきである」(4)。 参考資料: 憲法普及会兵庫県支部(編)(1947)『日本国憲法』pp. 3-5, 憲法普及会兵庫県支部. (Prange Call Number: JQ-0051) Charles L. Kades Paper [Online]. Draft Constitution of Japan (Second Government Draft), 6 March, 1946 [Japanese] (pp. 103-104). Retrieved from https://archive.org/details/mdu-prange-30402/page/n102 佐藤功(1947)『憲法改正の經過』p. 155, 日本評論社. (Prange Call Number JQ-0165) 美濃部達吉(1947)『新憲法逐条解説』p. 5, 日本評論社. […]

日本国憲法:第一回 – はじめに

[本記事は、三浦徳祥(みうら なりただ)](2018年~学生アルバイト)による寄稿です。日本国憲法に関するプランゲ文庫の資料を、ブログ記事全六回に亘って紹介します。]  日本国憲法 昭和21年1月1日に昭和天皇は「新日本建設ニ関スル詔書」を発せられ、日本国再興の旨を国民にお示しになられました。日本ではこの詔書を「人間宣言」と呼んではいるものの、内容としては天皇が神なる存在の否定よりも、始めに引用されている五箇条の御誓文の様に、日本国は一致団結し、この国難を臣民ともに乗り越えようという強い意志が示されています。 日本国憲法は昭和21年(1946年)11月3日に公布され、翌昭和22年(1947年)5月3日に施行されました。その間、GHQが日本国憲法草案にどれほど関与していたかに関しては未だに議論されています。残念ながら日本の学生がこのテーマについて研究をしようとした場合、言語の問題や資料へのアクセスの難しさから、その研究を断念せざるを得ない場合もあるかもしれません。 私はメリーランド大学で人文学部社会学科国際政治を専攻し、東洋史学プログラムにも参加しているので、日本国憲法には前々から興味を持っていました。そして今回、ゴードン・W・プランゲ文庫には多数の日本国憲法に関する資料が保管されていると知り、これは絶好の機会と思い、詳しく研究してみることにしました。今回の研究を通じ、この憲法の特殊性や、当時の政治家が直面した問題を初めて知ることができました。 こちらのブログでは、以下の通りに連載していきます: 前文 第一条 第九条 第七条 参考資料

メリーランドデー(4月27日)のお知らせ

プランゲ文庫は今年も4月27日(土)のメリーランドデーに参加します。 メリーランドデーは当大学のオープンキャンパスイベントで、毎年多くの来場者を迎えます。プランゲ文庫はホーンベイク図書館北館1階にて折り紙のテーブルを提供します。 また今年は現在開催中の特別展示「Crossing the Divide: An American Dream Made in Occupied Japan, 1945-1952」のツアーも随時行います。皆さまのご来場をお待ちしております。

Prange Staff Pick from the Exhibition – Made in Occupied Japan

2018年10月中旬より当メリーランド大学ホーンベイク図書館Maryland Room Galleryにて、プランゲ文庫の展示「Crossing the Divide: An American Dream Made in Occupied Japan, 1945-1952」を開催します。開催期間は2018年10月~2019年7月です。新しいシリーズ「Prange Staff Pick from the Exhibition」では、プランゲ文庫職員が特に気に入っている資料を詳しく紹介します。 日本では昔から「百聞は一見に如かず」と言います。読者の中には占領期について研究されている方も多く居られると思いますが、皆さんは実際に占領下日本の出版物や商品を目にした事がありますか? 戦後間もない昭和22年(1947年)2月20日にGHQは敗戦国日本に対して、日本からの輸出品には全て”Made in Occupied Japan”の印を付ける事を義務付けました。この政策は2年後の昭和24年(1949年)4月14日に廃止されましたが、中には”Made in Occupied Japan”の表記を占領が終わる昭和27年(1952年)4月まで続けた企業もありました。 Made in Occupied Japanの展示ケースは他の展示品とは異なり、違った角度から日本占領期について知る事が出来ます。今回の展示では主に検閲を受けた出版物を紹介していますが、こちらのケースでは商品とその裏に表記された”Made in Occupied Japan”を展示しています。この事から、占領軍の影響は出版業界に止まらず、工業界にも影響を及ぼしていた事が解ります。 更に、こちらの展示品では戦後間もない日本の経済復興についても垣間見る事が出来ます。太平洋戦争では連日の空爆によって、日本の工業は甚大な被害を受けました。しかし、戦争が終結すると日本における工業は復興の道を少しずつ歩み始めました。軽工業の復興によって日本経済は前進し、昭和25年(1950年)からは朝鮮戦争によって軽工業から重工業へと移り変わり、昭和40年代には世界に誇れる工業国家に進化していきました。 ******************************************************************** プランゲ文庫学生アルバイト 三浦徳祥

展示資料紹介:「W・F・マアクェット閣下のステートメント」

2018年10月中旬より当メリーランド大学ホーンベイク図書館Maryland Room Galleryにて、プランゲ文庫の展示「Crossing the Divide: An American Dream Made in Occupied Japan, 1945-1952」を開催します。開催期間は2018年10月~2019年7月です。今月から月に一度、ピックアップした展示資料の紹介を行います。展示資料シリーズはこちらからまとめてご覧頂けます。 「展示資料特集シリーズ」の七つ目は、野球雑誌「野球時代」(Prange Call No. Y42)に1949年4月に掲載された「W・F・マァクェット閣下のステートメント」を取り上げます。 これは米国ナショナル・ベースボール・コングレスのメンバーであったウィリアム・マァクェット氏(William Marquart)による寄稿です。この中でマァクェット氏は、アメリカのプロ・アマチュア野球にかかわる全ての人々が、日本における野球の発展を願っている、として次のように述べています。   これ等の人々は、米大陸に於ける隣接諸国と、極東にある諸国の間に、有効関係を再現するための方便として、国際野球のつながりが再開されることを心から期待しているのであります。” 先ず、ナショナル・ベースボール・コングレスでは、許される最も近い機會に、その國際優勝試合を日本に於て開催することを提案してきております。また幾多のプロ・ベースボール経営者らは、日本の野球ファンをもてなすために、よろこんで”オール・スター・ティーム”を連れて来るという申し込みを来ております。” このステートメントから6カ月後、サンフランシスコ・シールズの来日によって、この約束は守られました。 この資料はスペース関係上展示ケースには入れませんでしたが、オンライン展示にて公開しております。

オーラル・ヒストリー特集:マリウス・ジャンセン氏(Marius Jansen)

マーリン・メイヨー・オーラル・ヒストリーズに収められているインタビューをひとつずつ詳しく紹介していきます。現時点で、29件のインタビューについては筆記録をオンライン上で公開しています。その他の筆記録および音源は、プランゲ文庫館内にてご利用頂けます。これまでのオーラル・ヒストリー特集はこちらのページをご覧ください。 4月1日はマリウス・ジャンセン氏(Marius Jansen)の誕生日です。ジャンセン氏(1922年4月1日~ 2000年12月10日)は日本史の専門家として知られています。メリーランド大学歴史学部のマーリン・メイヨー教授は1979年11月10日、 “Oral Histories with Americans Who Served in Allied Occupied Japan” プロジェクトにてジャンセン氏のインタビューを行ないました。 ジャンセン氏はプリンストン大学でルネサンスと宗教改革の歴史を専攻しました。第二次世界大戦の開始に伴い、ジャンセン氏は日本語の訓練を受け米国防諜部隊(Counterintelligence Corps = CIC)に勤めました。ジャンセン氏は1945年8月初旬、日本降伏の直前に沖縄に着き、その後横浜に移動しました。インタビュー内でジャンセン氏は次のように述べています。 We managed to get Izu Peninsula added to our territory in time on the ground that connections were better from the north than from the Shizuoka side. So we developed a rather close familiarity with some […]