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1948年8月6日

1948年の今日8月6日の中国新聞一面記事「世界に響け平和の鐘: NO MORE HIROSHIMAS」は、次の一文から始まります。 「廣島の空を覆つた原子雲が去り晴れるとき、廣島市民は悲しみと苦惱のドン底から平和への途が開かれることを願いもとめた、あれから満三年、きょう八月六日は世界の人たちが記念する平和デーとなつて暦のうえをかざる日となった」 記事はこの日広島県各地で慰霊祭が予定されている一方で平和祭典も催されることに触れ、これこそ「きょう平和祭のもつ深味」であり「廣島市民の心の幅の廣さでもある」と評価しています。 翌日8月7日の同紙は前日の平和式典の様子がわかる写真を、「平和きっと廣島から」の題字と共に一面に掲載しました。また、英連邦軍総司令官ロバートソン中将が式典で読み上げた、マッカーサー元帥からの伝言も掲載されています。 抜粋「マッカーサー元帥は廣島の市民諸君に心からなる御あいさつを送り、かつ諸君が復興を着々遂行されつつあることに對し祝意を表されました」   また8月6日の紙面にはこんな記事もありました。「あの日生れたただひとり : 街の人氣者ピカ子ちゃん」は、1945年8月6日、原子爆弾が落ちた後の広島市内で生まれた子どものうち、唯一元気に育っているという富田博子ちゃんの紹介です。ニックネームは「ピカ子ちゃん」で街の人気者。最近では在日英連邦軍の日刊新聞BCON紙(British Commonwealth Occupation News)の記者もインタビューにきたそうです。 全ての画像はクリックで拡大します。 Advertisements

オーラル・ヒストリー特集: キーン ドナルド氏(Donald Keene)

マーリン・メイヨー・オーラル・ヒストリーズに収められているインタビューをオーラル・ヒストリー特集としてひとつずつ詳しく紹介していきます。現時点で29件のインタビューは筆記録をオンライン上で公開しています。その他の筆記録および音源はプランゲ文庫館内にてご利用頂けます。これまでのオーラル・ヒストリー特集はこちらのページをご覧ください。 本日6月18日はキーン ドナルド (Donald Keene)氏の誕生日です。 メリーランド大学歴史学部のマーリン・メイヨー教授は1982年5月14日、 “Oral Histories with Americans Who Served in Allied Occupied Japan” プロジェクトにてキーン氏のインタビューを行ないました。 実はキーン氏は占領期に日本に滞在したわけではありません。キーン氏は1945年12月に1週間日本に滞在しましたが、それ以降は占領期終了後の1953年まで日本を訪問することはありませんでした。しかしインタビューを聞くと、なぜメイヨー教授がこのプロジェクトにキーン氏を含めたのかが明らかになります。 戦中は多くのアメリカ人が海軍の日本語学校で日本語の訓練を受けましたが、キーン氏もその日本語学校に通った生徒の一人です。メイヨー教授の狙いは、この日本語学校の情報をできるだけ多く得ることでした。またメイヨー教授はインタビューの中で、キーン氏の海軍従軍者としての日本占領期観についても質問しています。キーン氏はまた“A History of Japanese Literature”というシリーズをこのインタビューの後に発表しており、メイヨー教授はこれについても様々な角度から質問を重ねました。 マーリン・メイヨー・オーラル・ヒストリーズのページで、このインタビューの筆記録をダウンロードできます。

1948年5月26日

Censored Newspaper Articles紹介の一環として、1948年の今日、5月26日に民間検閲局(CCD)へ提出された文書を紹介します。 1948年5月26日共同通信が、島根県の三瓶山近郊にて日本一、二を争う大きさのラジウム鉱泉が発見されたとの記事(日本語手書き原稿タイトル「すごいラジウム鉱泉発見」)を民間検閲局(CCD)に提出し、発禁(Suppress)処分を受けました。(Prange Call No. 48-loc-1770) 記事によると、広島にて被爆した患者がこの地で温泉に入ったところ傷が治り髪の毛も生えてきたという報告があったとのことです。これを受け岡山大学の教授が調査に乗り出し、この地におけるラジウム含有量が非常に高いことが判明したとあります。その後九州大学や京都大学の教授も調査に加わり、動物試験を経て効果が実証されたそうです。この記事が発禁処分になった理由は記されていません。 日本語手書き原稿のデジタル画像は、当文庫館内および国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧いただけます。

1948年3月17日

Censored Newspaper Articles紹介の一環として、1948年の今日、3月17日に民間検閲局(CCD)へ提出された文書を紹介します。 1948年3月17日読売新聞が、外国語習得を目指す国民が増え英語だけではなくスペイン語などに興味を持つ生徒が急増という記事を民間検閲局(CCD)に提出しました。一旦HOLD処分を受けましたが、その後PASSとなったようです。(Prange Call No. 48-loc-0472) 記事は終戦後「盛り上つた米英語熱はもちろん」のこと、現在はスペイン語やフィリピン語科に志願者が殺到している一方、蒙古科やイタリア語、ロシア語を志願する学生は減少していると述べています。たとえば東京外事専門学校の志願者を見ると、戦争中は志願者が激減した英米科が定員60名のところに志願者1200人以上(競争率21倍)、スペイン語(イスパニア科)は定員30名のところに志願者274名(競争率9倍)となったそうです。記事はこのスペイン語への興味は「講和会議後スペイン語を使う南米方面への進出を期待しているもの」と予想しています。 日本語ゲラのデジタル画像は当文庫館内および国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧いただけます。

1948年1月14日

Censored Newspaper Articles紹介の一環として、1948年の今日、1月14日に民間検閲局(CCD)へ提出された文書を紹介します。 1948年1月14日第一新聞が、東京都内のそば屋が外食券を発行して近々営業を再開するという記事を民間検閲局(CCD)に提出し、発禁(Suppress)処分を受けました。(Prange Call No. 48-loc-0156) 「外食券ソバ: 二月中旬ころ」と題されたこの記事によると、東京都内のそば屋が近く本格的に営業再開とのことです。ただし「そば屋さんの加工能力と原料不足」のため「全都民への配給は不能」であり、そのため「主食差引きのそば(うどん)専鑛の外食券」を発行することでまかなうとあります。この記事が発禁処分を受けた理由は特に記載されていません。 日本語ゲラのデジタル画像は当文庫館内および国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧いただけます。

1947年12月20日

Censored Newspaper Articles紹介の一環として、1947年の12月20日に民間検閲局(CCD)へ提出された文書を紹介します。 1947年12月20日東京タイムズが、日本の傷痍者に同情したローマ法王から一万円が送られてきたという記事を民間検閲局(CCD)に提出しました。記事によると、この寄付に感激した大田区南千束にあるカトリック教会の信徒たちは、寄付金全額をクリスマスの日に傷痍者授産場に送ることにしたとのことです。この記事は一旦保留(HOLD)となりましたが、その後検閲処分を受けずに通過したと思われます。日本語の棒ゲラ(「傷[痍]者の授産場にローマ法王から一萬圓 日本信敎の善行が結完」)のデジタル画像は、当文庫館内および国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧いただけます。

1947年10月26日

Censored Newspaper Articles紹介の一環として、1947年の10月に民間検閲局(CCD)へ提出された文書を紹介します。 1946年、昭和天皇による日本各地への巡幸が始まり、各地域の新聞だけではなく大手の日刊紙もこぞってこの話題を取り上げました。プランゲ文庫が所蔵するCensored Newspaper Articles (CNA)にも、巡幸に関するものがいくつか確認できます。下記のCNAは石川県への巡幸(1947年10月26日~30日)に言及した記事2点です。このうち読売新聞の記事は民間検閲局(CCD)によって削除(Delete)処分を受けました。日本語ゲラを見ると、削除された箇所は「組合側では陛下巡幸の廿八日を期してサボに入ることを準備し….”」とありました。(Prange Call No. 47-loc-1407) 下記の画像をクリックすると拡大します。日本語ゲラのデジタル画像は当文庫館内および国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧いただけます。 天皇の巡幸はプランゲ文庫が所蔵する他の資料でも見られます。以下は一例です。