「僕、タンクを描きたいんだが、うまく描けないや、お母さん、タンクを描いて…」(「やさしい絵の描き方」1943 )
明治以降日本では良妻賢母が婦人の理想像として掲げられましたが、戦時中の「賢い母」は兵隊や戦闘機の絵を描くことが要されたのでしょうか。今日は母の日にちなんで、マデイー・ウィレットさんの記事を紹介します。2023年秋学期プランジ文庫でインターンとして働き、児童書コレクションにある絵手本についてリサーチを行いました。優れた日本語能力とグラフィック・アートの経験を生かし、説明の文章を翻訳し実際手本に習い絵を描いてみました。二回にわたるプログ・ポストの第二部は「やさしい絵の描き方:略画の絵手本」(1943)を検閲の視点から見ていきます。
プランゲ文庫のインターンシップでは検閲を研究したいとずっと思っていました。考えてみれば、検閲を通して民主主義、言論の自由などを広めるというミッションは偽善的で、アイディアとしてとても惹かれました。プランゲ文庫の児童書は全部デジタル化されているので、それを中心に検閲された資料を読みはじめた。驚くところではないかもしれませんが、興味のきっかけとなったのは小野寺秋風の「やさしい絵の描き方 : 略画の絵手本」でした。CCDに提出されたのはゲラ刷りではなく初版本で、奥付は二つあります。一つ目は初版本の奥付で発行年は昭和18(1943)になっていて、初版本は戦時中のものです。二つ目の奥付は手書きの再版するための奥付で、発行年は昭和21(1946)になっていて、初版本と発行所も違ってます。
表1 初版本の奥付(左)と手書きの奥付(右)
これは「やさしい絵の描き方」の特徴です。まだ戦時中の日本なのでCCDの目のために書かれているのではなく、発行者側の自己検閲は全くありません。代わりに再販本のゲラにはCCDによる検閲が全体的に入っています。要するに児童書の検閲について、そして全面戦争の広がりを理解するためには、この本はベストではないかと私は思っています。
また、他のプラン下文庫の絵の描き方を教える本に比べると、「やさしい絵の描き方」は一番長く、総合的です。コピーするための略画の絵手本だけではなく、もっとうまく物事を描くようになるためのアドバイスも細かく書かれています。プランゲ文庫にある絵の描き方を教える本の中にこうしたアドバイスが稀で、全部を読んだ結果、「やさしい絵の描き方」のアドバイスが一番いいと思っています。
なので、二つの視点からこの本を見てみたいと思います。一つ目は美術的な視点(記事の第一回目)二つ目は歴史的な視点、両方の視点からみる必要があると思います。今回は歴史的な視点から見てみましょう。何が検閲されているのか?何が検閲されていないのか?そして、これによって、戦時と戦後の日本について何がわかることができるのか?
最初の文から「タンク」という単語が出てくるので、「やさしい絵の書き方」は厳しく検閲されたことは驚きではないでしょう。削除の指示が書かれているメモ用紙が表紙に貼られています。注意すべきは、ページ全体が削除された場合はページ数が表に出ていないこと。はしがき、軍に関する略画ばかりである70ページから91ページまで、そして初版本の奥付の後にある絵も全部削除されています。
この本が重く検閲されたということが明らかです。「占領下の児童出版物とGHQの検閲」によると、出版された形跡はありません。でも表の中に、面白いものがたくさんあります。「防空」が「防火」になっているところが二つあって、この本のなかに防空のイメージが珍しくはないということがわかります。戦時中の状況の反映ではないでしょうか。「本当に検閲する必要があったの?」と思ってしまうところも複数あります。剣道と柔道は確かに軍と関係をもった武術ですが、必ずしも軍に関するものではありません。147ページで削除されている「ロケーション」もまた面白い。刀をもって侍を演じている役者たちが描かれているが、あくまでも演技で、侍そのものが削除に値するものだとは思えません。また面白いのは全部削除されているはしがきです:
表3 はしがき
はしがきの中心になっているのは小野寺秋風の誰でも絵を描けるようになるという希望です。が、戦争の影響がどこまで広まり子供の絵を描きたいという純粋な気持ちもタンクを描くのが前提になったことがわかります。最後の部分から陸軍省属の三人がこの本の出版に関わったことも明らかになりますが、ただ絵の描き方を教えるための本とすればあまりにも過激に見えます。これを通して、どれだけメディアが軍によって影響されていたのかわかります。はしがきの最後の文は「私は此書を置土産として、前線に最後の御奉公を捧げたく決心を致して居ります」になっています。幸いに、プランゲには小野寺の著書が15冊もあり、前線に行き戦争を生き抜いたことがわかります。はしがきがここまで戦争のことをにおわしているので、なぜCCDが削除を命じたかは明らかであるでしょう。
この例を鑑みて、「占領下の児童出版物とGHQの検閲」には「戦争に関わるものは全てが細かくチェックされている」と書かれています(p.254)。けれど、私にはそうだとは思えません。一つの理由は侍の絵の削除に出てくる矛盾。147ページの「ロケーション」が削除のためマークされていますが、「風俗いろいろ」という章に出てくる刀を振りかざしている武士の絵は3ページにも及ぶが、チェックされていない。検閲された漫画を研究した結果、「占領下の児童出版物とGHQの検閲」の著者は抜刀が問題になっていると推測してますが、「風俗いろいろ」の章には抜刀の武器もあるので削除されていない説明にはなりません。「ロケーション」との違いをしいて言うなら、「風俗いろいろ」の武士は単体で、「ロケーション」の武士は一つの絵に複数いるが、「やさしい絵の描き方」には他の検閲の矛盾が存在するので、説明としては成り立ちません。
検閲されていないのが信じられない部分は64・65頁の「略画の絵手本について」です。タイトルから分かる通りこれは「略画の絵手本」のはしがきです。全部が削除になっている戦争のイメージが書かれているページがこの部分にあります。「略画の絵手本について」はその数ページ前にあります。「大東亜共栄圏」という単語が書かれていますがこの2ページは全然マークされていません。
表4 略画の繪手本に就いて
戦争のことが明らかに書かれているので、CCDが検閲しないとは思えません。この二つのページに注意するところはいくつかあります。一つは自分が子供に教えた絵が「慰問画となって前線の兵隊さんを慰める」という信念。二つは皆が絵を描けるようになったら、絵は世界通用語になって、大東亜共栄圏の「文化工作建設の上に於いても裨益する」という希望。三つめは軍が目を通しているという承知。はしがきと「略画の絵手本について」が表している小野寺秋風の希望は野心的で武断的です。絵を教えることが夢ではなく、戦争の助けになるからこそそれは夢であると断言しています。この時期、出版物と美術は軍の支配下にあったので、どれだけ小野寺がこれを本当に信じていたかは明らかではありませんが、本にそう書かれていることには変りないのです。
しかし、こんなにも戦争のことを話しているなら、なぜ削除しなかったのか?「やさしい絵の描き方」では色んなものが細かく検閲されているので、CCDが「略画の絵手本について」をそのままにして本の出版を許したとは思えません。すると、二つの可能性があります。見過ごしてしまったか、わざと見逃したか。この二つのページがとなりにあるので、通読するときは見過ごしてしまうのはあり得たかもしれません。この本が再出版されないことを見越してわざと見逃したこともありえます。
本の検閲には、どちらの説明をも裏付ける証拠が見当たります。「風俗のいろいろ」に見られるような検閲の矛盾があるのは本の後半だけ。240-241ページにも検閲のミスがあります。削除の指示が書かれているメモ用紙には241ページに削除しなければならないものがあると書かれていますが、本でマークされている砲弾と魚雷は240ページにある。「占領下の児童出版物とGHQの検閲」によると、富士山と飛行機の絵が書かれているうちわを削除する必要があると書かれていますが、「やさしい絵の描き方」ではそう指示するマーキングはありません。こうした矛盾は後半だけにあるので、検閲者はこの本が出版するはずがないと気づいたことが推測できますが、メモ用紙には本全体の箇所が書かれていることから本全体を細かく検閲するつもりであったことも推測でます。検閲したところはあまりにも多いので、見過ごしてしまったところもあるのは仕方がないかもしれません。
何しろ、検閲された・されていないところを見ると、プランゲ文庫には滅多に見ない戦時中の日本の跡形が見えます。「やさしい絵の描き方」が書かれていた時期には、戦争の影響は全てに及んでいました。厳しく検閲されていることから、柔道でも剣道でも、戦争をにおわせるもの全部がタブーであったことがわかります。このようにプランゲ文庫の「やさしい絵の描き方」は二つの物語を伝えています。一つは戦争に囚われている国、一つはそれを忘れさせようとしていた外国。 (終わり)
参照:
Yasashi e no kakikata : ryakuga no e tehon / やさしい絵の描き方 : 略画の絵手本
Omoshiroi sugaku no ryakugacho dobutsu no maki / おもしろい数字の略画帳 動物の巻
Suketchi no kakikata / スケッチの描き方
占領下の子ども文化<1945~1949>ーメリーランド大学所蔵プランゲ文庫「村上コレクション」に探るー
谷暎子の「占領下の児童出版物とGHQの検閲」
Madeleine Willette 美術史と日本語を専攻するメリーランド大学カレッジ・パークの在学生。只今京都大学へ留学中。